同調者

「逃げ」なのか否か

私は自分で何者かになろうとしたことがない。型にはまった自分でいることを避け、いつも柔軟に、円滑な人間関係を築くことに徹する。

思えばこれは幼稚園児の時から保ってきた姿勢だ。 3歳から「空気を読め」と母親に教えられたからだろう。集団に混じっても常にある一定の距離を置き、波を立てないように温和な顔をして過ごしてきた。

しかしそれが良い結果を引き起こさなかったこともある。小学生の時、それが気に食わなかった同級生たちが私を仲間外れにして陰湿な陰口を叩いた。仲良くしていた3人がこぞって私を虐めの標的にしたのだ。担任の先生に促され話し合いをした際、何故このようなことをしたのかと3人は問われた。すると何だ、一人っ子で常に(精神的に)余裕のある表情の私が羨ましかったのだという。兄弟姉妹のいる心身的に窮屈な環境に対する鬱憤晴らしが動機だったのだ。全く、ただの当てつけではないか。笑わせるな。私が流した涙を返してほしいと思った。

思えばこの時から自分のことが分からなくなった。プライドもなく、誰かと争うことも責任を取ることも避けて過ごすようになった。いわば自分を殺したのだ。

怖かった。今まで築き上げてきたものが崩れることが、傷つくのが。


これらを思い出したのは先日、あるイタリアの映画を観たことがきっかけだ。その作品の主人公は自身のコンプレックスを隠すため体制順応主義の人生を歩んでいた。しかし、最後には過去の自分と現在の自分が重なって崩れ堕ちていくのだ。

順応主義、同調、コンフォーミズム…

同調は逃げなのだろうか。私にとって見過ごせないテーマであり、心に影がさした。