今日の私の振る舞いはあまりにも無責任なものだった。

私は彼に寄りかかり過ぎだ。そのせいで困らせたり傷つけてしまっているかもしれない。こんな風に精製されていない自分の感情を伝えられて、そして受け止めてくれる人に出逢えた事はこの上ない喜びだ、なんて考えがよぎったことを反省している。今度会ったら私の我儘とも云えるその振る舞いを詫びようと思う。

日記

1月26日より一部を抜粋

六曜社地下店にて。プレーンなドーナッツとミルクコーヒと共に。

今日は昼前まで寝て午後は写真展の準備作業をしに大学へ。ここに来たのは昨日彼に会ったことを振り返るため。

24日に続きアパートでごろごろした後、その日は珍しく少し遠出をした。帰宅ラッシュ時の叡電に乗って終点の鞍馬へ。前日に降った雪が残っているだろう、ということで見に行った。出町柳は一切雪が無かったが、市原辺りを過ぎると雪が見え始めた。線路沿いや民家に積もる雪を見て、"雪だ雪だ"と彼と目を合わせて微笑む。ただ、雪の多さは予想外だった。貴船で多くの乗客が下車するのを見送った後、残された私たちは「こりゃ寒いぞ…」と身構える。

鞍馬駅に着くと、人気のない小さなターミナルには一面の雪が。「おおーっ」なんて白い息を出しながらその景色に魅入った。記念にホームで彼の姿を写真に残す。私のフライトキャップを被る彼。よくお似合いです。駅を出て「寒い寒い」とその人の腕にしがみつきながら静まった暗い夜道を道なりに進んでいく。土産物屋や宿を抜け、仁王門をくぐった。雪を被った朱色の灯篭が並ぶ階段は圧巻だ。この世とあの世の境目のような、そんな息を呑む美しさである。一歩一歩、足元に注意しながら昇っていく。幸い、人の往来による獣道が出来ていたので足を滑らせて転けるようなことはなかった。だが、足跡があるのに人っこひとり見かけないのだ。それがまた幻想的に思わせる。そうして下ばかりに注意を払っていると、頭上の木の葉がガサッと揺れて2人でびっくりすることになった(笑い)。そんな瞬間も愛おしい。

途中、平地で彼の一服に付き合った。しんしんと雪が降り、月明かりと灯篭の温かな光が私たち2人を照らす。その情景は素晴らしかった。言葉で表すのは難しいが、永遠を思わせるような、そんな不可侵の壮美さがそこにはあった。誰にも邪魔されないという安心感。零下の気温だったが寒さなんかどうでも良くて。あの時間は、私の中でこの先もずっと、生き続けるだろう。良い冬の思い出だ。あの日見た白く輝く月も、澄んだ空の先にある星も、冷たい空気も彼の腕を強く掴むあの感覚も、全てスノードームのように閉じ込めたい。

 

彼は淪落ともいえた私の人生に無限の輝きを与えてくれた。本当に、ありがとう。私が貴方を守ります。

戒め

人のことを恨んだり憎んだりしたっていいと思う。それが刃と化すのでなければ。

過去のことを思い出してふつふつと怒りの感情が湧いてきたが、これもある意味では生きる上での滋養になっている。

人の苦悩を知らず、平気で人の尊厳を傷つけるような浅ましいあなたよりも私の方が幸せだから、と信じてきたのだ。

同調者

「逃げ」なのか否か

私は自分で何者かになろうとしたことがない。型にはまった自分でいることを避け、いつも柔軟に、円滑な人間関係を築くことに徹する。

思えばこれは幼稚園児の時から保ってきた姿勢だ。 3歳から「空気を読め」と母親に教えられたからだろう。集団に混じっても常にある一定の距離を置き、波を立てないように温和な顔をして過ごしてきた。

しかしそれが良い結果を引き起こさなかったこともある。小学生の時、それが気に食わなかった同級生たちが私を仲間外れにして陰湿な陰口を叩いた。仲良くしていた3人がこぞって私を虐めの標的にしたのだ。担任の先生に促され話し合いをした際、何故このようなことをしたのかと3人は問われた。すると何だ、一人っ子で常に(精神的に)余裕のある表情の私が羨ましかったのだという。兄弟姉妹のいる心身的に窮屈な環境に対する鬱憤晴らしが動機だったのだ。全く、ただの当てつけではないか。笑わせるな。私が流した涙を返してほしいと思った。

思えばこの時から自分のことが分からなくなった。プライドもなく、誰かと争うことも責任を取ることも避けて過ごすようになった。いわば自分を殺したのだ。

怖かった。今まで築き上げてきたものが崩れることが、傷つくのが。


これらを思い出したのは先日、あるイタリアの映画を観たことがきっかけだ。その作品の主人公は自身のコンプレックスを隠すため体制順応主義の人生を歩んでいた。しかし、最後には過去の自分と現在の自分が重なって崩れ堕ちていくのだ。

順応主義、同調、コンフォーミズム…

同調は逃げなのだろうか。私にとって見過ごせないテーマであり、心に影がさした。